日本を強くする経済政策(2) 経済は本質的に《非ゼロサム》である

 前回の「日本を強くする経済政策(1)」では、

  • ①人間関係には《ゼロサム》の人間関係と《非ゼロサム》の人間関係がある
  • ②見方によって同じ状況が《ゼロサム》にも《非ゼロサム》にもなりうることがある
  • ③《ゼロサム》的な見方をするより《非ゼロサム》的な見方をするほうが人間は幸せになることが多い

というお話をしました。

 それでは、経済というのは《ゼロサム》なのか《非ゼロサム》なのかという話になりますが、これは基本的には《非ゼロサム》なのです。実は、近代経済学の基本思想となっているのは、「効用功利主義」という考え方です。「効用」というのは、《幸せ度》のことです。ソフトクリームをなめると「おいしい」と感じて《幸せ度》が少し上がりますし、ステーキを食べると「おいしい」と感じて《幸せ度》が少し上がります。これを、経済学では「効用」が上がると表現するわけです。

 だから、世の中には、ソフトクリームをつくる人やステーキをつくる人が出てくるわけです。これが生産活動です。経済というのは、大まかに言って生産活動(つくること)と商業活動(売買、つまりお金を仲立とする交換)に分けることができます。生産活動だけで商業活動のないの世の中というのは、自給自足の世の中、つまり、ソフトクリームをつくる人はソフトクリームをひたすらなめ、ステーキをつくる人はステーキをひたすら食べるという世の中です。

 しかし、おいしいからと言ってソフトクリームをいくつも食べ続けると、だんだん飽きてきますし、そのうち体が寒くなって来て、お腹を壊します。また、おいしいからと言ってステーキをいくつも食べ続けると、満腹で苦しくなりますし、食べ過ぎると肥満になったり生活習慣病になったりします。要するに、物には適量というものがあって、それを超えると《幸せ度》はそれほど増えなくなったり、むしろ下がっていったりするのです。これを、経済学の用語で「限界効用逓減の法則」といいます。

 しかし、商業のシステムとそれを可能にするお金というものがある御蔭で、ソフトクリーム屋さんはソフトクリームを売ってお金に換えて、そのお金でステーキを食べることができますし、また、ステーキ屋さんもステーキをお金に換えて、そのお金でソフトクリームをなめることができます。かなり単純化していますが、これが「経済」というものの本質です。

 つまり、商業活動により、ソフトクリーム屋さんの《幸せ度》も、ステーキ屋さんの《幸せ度》も両方上がるわけです。これを「《幸せ度》プラス1」と表現する場合には、ソフトクリーム屋さんの《幸せ度》がプラス1、ステーキ屋さんの《幸せ度》もプラス1ですから、全体としてはプラス2になる。さらに、最初に生産活動により手に入れた《幸せ度》も「プラス1」とカウントすれば、何もしない状態と較べて全体としては何とプラス4になっています。いずれにしても、経済というのは、合わせてゼロよりも多くなる《非ゼロサム》の世界なのです。

 デイヴィッド・リカードという経済学者が証明したところによると、実は、商業活動の存在によって生産活動自体も効率化されて、社会全体が豊かになります。これは、商業により社会全体の分業が可能となって、社会全体として生産力が向上するからです。上の例の場合、ソフトクリーム屋さんがソフトクリームとステーキの両方をつくって自給自足するよりも、ソフトクリーム屋さんはソフトクリームづくりに専念して(「餅は餅屋」)、ステーキはステーキ屋さんから買ったほうが社会全体として効率的だということです(比較優位論)。こういう意味でも、経済というのは「ウィン=ウィン」の関係なのです。

 説明のためにソフトクリームとステーキに単純化して申し上げましたが、実は、お米でも魚でもお酒でも同じことが妥当します。つまり、《生産と交換による効用の増加》というこれと同じことが世界中の至る所で幾重にも起こっているのが、「経済」というシステムなのです。つまり、世界中の人々が、経済というシステムの御蔭で、とてつもなくたくさんの《幸せ度》を増やしているわけです。

 たまに履き違えている方がいますが、人を騙してお金をふんだくるというのは、「経済」ではありません。これは、ジャイアンがのび太からグローブをふんだくることを「経済」とはいえないのと同じです。ポンジスキームのような投資詐欺で人からお金を騙し取るのは、「経済」の名に値しません。本当の経済とは、(金銭を媒介とする交換活動を通じて)自分も相手も幸せになるという「互恵の道」なのです。

 このことを「最大多数の最大幸福」という言葉で表現したりしますが、私は、大学2年生の近代経済学の授業でこのことに気づいたとき、しばらく感動にうちひしがれて、授業が終わってもしばらく動くことができなかったことをよく覚えています。自分が本能として分かってはいても、理屈ではうまく表現できなかったもの(「質料」)に、ようやく納得のいく説明(「形相」)が与えられたからです。

 正直申し上げて、この発見は、私の人生における一二を争う重要な発見であったといわざるを得ません。なぜかと言えば、まず第一に、前回申し上げた通り、同じ物事でも《ゼロサム》的に見るか《非ゼロサム》的に見るかによって、まったくその人の生きる現実が変わってしまうということに、本当の意味で気づけたこと。そして第二に、このときに私の中で「経済は《非ゼロサム》である」という経済観が形成されたことによって、自分自身が実際にその後の人生においてとても幸せな状態で経済活動(ビジネス)を行うことができたこと。この2つが理由です。

 前回の復習になりますが、《ゼロサム》的な見方をすると、自分以外のすべての人は「敵」になってしまいます。世の中には、人が儲けたと聞くと自分が損をしたような気分になる人がいます。自分が一銭の損もしていないにもかかわらずです。特に我が国においては、どうも経済的に成功した人をやっかむ風潮が強いようにも思われます。例のホリエモン事件の際の、「ホリエモンが儲けている、まったくけしからん」というあの風潮です。

 おそらくこれは、言外の前提として「世の中の豊かさのパイは限られている」ということを無意識に前提にしてしまっているのだと思われます。「限られたパイを相手が得れば自分が失う」という典型的な《ゼロサム》の思考様式です。このような考え方をすると、ビジネスというのは本当につらいものになってしまうと思います。ビジネスが果てしない「敵との戦い」となってしまうからです。可哀相なことに誰にも心を許すことができず、奪うか奪われるかと常に戦々兢々として心がすさんでしまいます。私も一企業の経営者ですが、実際にそういう方々を幾人も見てきました。

 しかし、ビジネスの世界においては、そもそも「世の中の豊かさのパイは限られている」という前提自体が誤りなのです。上で見た通り、一人一人が一生懸命経済活動を行うことによって、「世の中の豊かさのパイはどんどん増えている」のです。そのように考えれば、経済とかビジネスというのは、共存共栄のための「互助の道」、「互恵の道」となりますし、取引先も同僚も皆「ビジネスパートナー」となるわけです。どう考えても、こちらの考え方のほうが幸せにビジネスができます。自分自身がしっかり儲けることで社会全体が豊かになるのですし、また、自分が相手にしっかりと良質のサービスを提供し、相手を幸せにすることで、社会全体が豊かになるのです。各自のビジネスにより社会全体を富ませていくことで、パイはどんどんと大きくなります。

 理論的に見ても、GDP(国内総生産)というのはGDI(国内総所得)と同値であり、したがって、日本国内の人々の所得をすべて足したものが日本国のGDPとなります。つまり、一人一人が稼げば稼ぐほど、日本の国は全体として豊かになるのです。だから、ホリエモンが儲かれば儲かるほど、日本のGDPは増えていたはずであり、したがってこれは国民として慶賀すべきことだったはずなのです。

 私の好きな書籍の一つに『管子』という中国の古典がありますが、その一節に「倉廩みつれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」という有名な言葉があります。これは、国が経済的に豊かにならないと人々は礼儀正しくならないという意味ですが、なぜそうなのかということについて私の考えを述べれば、豊かでないと社会全体の考え方が《ゼロサム》となってしまい、奪うか奪われるかのすさんだ世の中になってしまうからです。そういう意味で、国の経済をきちんと機能させて、経済を成長させていくというのはとても大事なことなのです。

 明治天皇が建国の体を示した「五箇条の御誓文」においては、「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」、すなわち「国民が心を一つにしてさかんに経済活動を行うべきである」という徳目が述べられています。経済というものが、本来的に(「国民が互いに敵対し合って」ではなく)「国民が心を一つにして」行うべきものであることはこれまで述べてきた通りですが、こういう気持ちで国民一人一人がガンガン経済活動を行いなさいというのが、我が国の明治維新以来の国是なのです。

【今回のまとめ】

1 経済は本質的に《非ゼロサム》である。
2 《ゼロサム》的な見方で経済活動を行うこともできるが、つらく苦しい。
3 《非ゼロサム》的な見方で経済活動を行えば、楽しいし、国民が心を一つにすることができる。
4 《非ゼロサム》的な見方で国民が心を一つにしてガンガン経済活動を行おうというのが、明治維新以来の日本の国是である。

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(平成26年5月記)