日本を強くする経済政策(3) 《企業》を元気にすることで日本全体を元気にする

 前回「日本を強くする経済政策(2)」では、「経済が本質的に《非ゼロサム》である」という話をしました。これは、いわゆる近代経済学というものが基本的に「効用功利主義」という《非ゼロサム》思想(「最大多数の最大幸福」)に基づいており、かつ、現代の世界経済が基本的にこの近代経済学の考え方にのっとって運営されているということです。

 しかし他方で、この論説の初めのほうで、同じ物事を《非ゼロサム》と捉えることもできるし、《ゼロサム》と捉えることができる、というお話もしました。それでは、経済というものを《ゼロサム》的に捉えることもできるのでしょうか。

 実は、できます。いわゆるマルクス主義経済学というのがそれです。マルクス主義の基本的な考え方を一言で説明すると、資本家と労働者は「搾取」の関係にある(つまり「ウィン=ルーズ」の関係にある)から、「革命」を起こして労働者が独裁政権を樹立しなければならない(「プロレタリアート独裁」)、という思想です。つまり、労働者にとって資本家は不倶戴天の「敵」だというわけですから、これは典型的な《ゼロサム》思考です。

 しかし、現在では、かつてマルクス主義に基づいて経済を運営していた社会主義国はほぼすべて崩壊しました(ソ連・東欧)。中国は唯一経済的に生き残った社会主義国ですが、これは鄧小平の「改革開放」により実質的に資本主義経済に移行しており(いわゆる「社会主義市場経済」)、もはやマルクス主義に基づく経済は行っていません。北朝鮮も社会主義国ですが、経済的に完全に破綻しており国民は貧困に喘いでいます。

 このように、経済を《ゼロサム》の人間関係とみなすマルクス主義は、歴史上完全に失敗だったことが証明されました。つまり、経済をまっとうに運営していくためには、《非ゼロサム》の考え方にのっとらなければならないということを、世界は実体験から学んだわけです。

 ところで、ここまでの話を要約すれば、「経済というものは《非ゼロサム》的にも《ゼロサム》的にも捉えることができるが、目的合理性の観点からは、経済を《非ゼロサム》的に捉えたほうが合理的である」ということになります。この論説の冒頭で話の枕として大学受験の話をしましたが、これも、「大学受験というものは《非ゼロサム》的にも《ゼロサム》的にも捉えることができるが、目的合理性の観点からは、大学受験を《非ゼロサム》的に捉えたほうが合理的である」というお話でした。これとまったく同じ論理が、実は経済というものについても妥当するのです。

 勿論、「資本家と労働者の利害は対立関係にある」という《ゼロサム》的な見方は、物事の真実の一側面を鋭く剔抉しており、簡単に否定してよいわけではありません。場合によっては、そのような見方をすることが問題解決に資することもあるでしょうし、そのような場合にはそういう見方が必要とされます。ただ、それによって大局(「経済を健全に運営する」という大きな目的)を見失ってはならないのです。

 マルクス主義のいう「資本家」と「労働者」の関係、今日的な言い方をすれば《企業》と《従業員》の関係というのは、対立関係とも互恵関係とも見ることもできるものですが、日本経済を盛り上げて、日本が強くなり繁栄していこうとするならば、やはり「従業員が一生懸命働くことで企業は儲かり、企業がしっかりと儲けて大きくなることにより、さらに多くの良質な雇用が生み出される」という「ウィン=ウィン」の関係であると考えるべきです。

 そのほうが、前回ご紹介した「国民が心を一つにしてさかんに経済活動を行うべきである」という五箇条の御誓文の精神にも合致します。つまり、《企業》と《従業員》を互恵関係、《非ゼロサム》関係と見ることこそが、日本の建国の体に合致するのです。

 この意味で、共産党などが《企業》というものを闇雲に敵視して「内部留保を吐き出せ」などと無責任な主張をしているのを見ると、本当に腸が煮え繰り返る思いがします。

 そもそも、《企業》の経営というのはそんなに楽ではないのです。私は学生時代世田谷区の代田というところに住んでいたことがありますが、あの辺りはかなりの数のラーメン屋があることで有名です。私が住んでいたのはたかだか1年半ですが、それでも相当の頻度で店が入れ替わっていました。ガンガン潰れて、その代わりに新しいラーメン屋がガンガンできる。きちんとは数えませんでしたが、開業してうまくいく店が半分もあれば上出来だったでしょう。それほどに、起業というものは難しいのです。私自身も、2005年に起業した当初は、なかなかお客さんが付かずに随分苦しんだことをよく覚えています。

 このように、そもそも《企業》というものは、潰さずに経営していく(これを「ゴーイング・コンサーン」といいます)だけでもかなり骨が折れるのですが、最近では、もう一つ《企業》の苦労に拍車がかかる現象が起こりました。いわゆる新興国の参入です。

 新興国というのは、典型的にはいわゆるBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)ですが、これらの国々は圧倒的に労働賃金が安いのです。ですから、同じ商品を同じ設備の工場でつくっても、人件費が安いので、日本でつくるより中国でつくるほうが安くできてしまう、あるいは、EUでつくるよりもブラジルでつくるほうが安くできてしまうのです。

 そうすると、通常、消費者は安い物を買いますから、賃金の高い先進国(日米欧)の企業は、同じ物をつくって売る競争をするのでは、グローバル市場で新興国の企業にもはや太刀打ちできなくなってしまうことになります。これは、先進国にとっては存亡に関わる重大問題です。

 先進国にこのような危機的状況が到来することを見据えて、EUの首脳たち(欧州各国の大統領・首相たち)が2000年3月のリスボン欧州理事会で決定したのが、EUの国際競争力強化政策として有名な「リスボン戦略」(2000年〜2010年)です。これは、10年で「EUを世界一の競争力とダイナミズムを有する経済圏(すなわち、雇用を量・質ともに向上させて社会的連帯を強化しつつ持続可能な成長を実現する力のある経済圏)とする」という目標(リスボン戦略5項)を実現するために、EU経済の構造改革を推し進めていこうとするものでした。

 リスボン戦略の内容には時期によって若干の変化が見られますが、基本的には《新自由主義》という経済思想を体現したものです。私なりに内容をまとめると、中核となっているのは「①企業の負担軽減(規制緩和、減税)、②知識経済の基盤の整備(IT環境の整備、教育・研究開発の振興、知的財産権保護強化)、③殖産興業策(環境産業等の成長産業の育成)によってEU域内の企業を元気にすると同時に、企業を甘やかさずにしっかりと競争をさせる(EU域内の通商自由化による「単一市場」の完成、さらに国営事業も民営化して競争に参入させる)ことで真に国際競争力のあるグローバル企業を育て、国際的に市場の相互開放を進めて世界市場でどんどん売る」という経済政策です。そして、この経済政策を実現することで、EUの経済を成長させ、EUの雇用を増やすことができると考えたのです。そして、この経済政策は基本的に成功したとの認識の下、現在のEUの「欧州2020」戦略(2010年〜2020年)にもほぼそのまま継承されています。

 つまり、EUの経済政策は、2000年以降現在に至るまで、「EU域内の企業を元気にすることで、初めてEU域内の雇用も増やすことができる」という思想に基づいているのです。これは考えてみれば至極当たり前の話です。企業はただでさえグローバル経済への新興国の参入で苦しんで弱っているのだから、これ以上無意味に企業に負担を転嫁するような経済政策を打てば、多くの企業は潰れてしまい、大量の従業員が職を失ってしまう。しかしその逆に、企業の負担を軽減して良い刺戟を与えてあげれば、企業は元気になり、それによって仕事はどんどん増えていくはずだ。そうだとすれば、先進国としては、このような経済政策を打つ以外に生き残りの道はないのです。

 このような世界的潮流を受けて、日本の小泉政権(2001年〜2006年)も新自由主義思想に基づいて経済の構造改革をガンガン推し進め、日本経済の国際競争力を大きく強化しました。また、アメリカのブッシュ政権も、2006年に「アメリカ競争力イニシアティヴ」、2007年に「アメリカ競争力法」を制定して、やはり新自由主義に基づく構造改革を経済政策の中枢に据えました。

 つまり、世界の先進国はすべて2000年代に《新自由主義思想に基づく構造改革》へと舵を切ったのです。当時私はドイツで暮らしていて、EUの政策調査を生業としておりましたので、たまたまこのような世界の経済政策の流れをよく知っていました。ですから、私は小泉政権が推し進める構造改革を心から応援していました。

 ところが、日本のメディアはこういう世界の潮流をまったく報道せず、小泉政権の構造改革については「格差社会」という言葉を濫発して批判ばかりしました。このために日本では「新自由主義」とか「構造改革」という言葉には非常にネガティヴなイメージが付着してしまいました。これは日本にとって非常に不幸な出来事だったと思います。

 そして、驚くべきことに、後続の自民党政権(具体的には、第一次安倍政権、福田政権、麻生政権)は、小泉政権の経済政策を継承せず、《新自由主義に基づく構造改革》をパッタリとやめてしまったのです。やめてしまったどころか、改革を巻き戻すようなことまで始めた。郵政選挙において自民党は構造改革の継続を国民と約束して政権を維持したにもかかわらずです。これには私も一国民として業を煮やしたことを覚えています。

 郵政選挙において、自民党は「構造改革を継続しなければいけない」と言って衆議院を解散し、国民の信を問うたのです。そして、その結果として自民党は衆議院の3分の2を獲得した。そうである以上、自民党は国民との約束であった《新自由主義に基づく構造改革》を継続しなければならなかったし、日本経済もまさにそれを必要としていたのです。しかし、メディアに迎合するかたちで、自民党は国民との約束を破ったのです。

 だから、その次の衆院選で自民党は政権から陥落したのです。国民との約束を破った以上当然の報いであったわけですが、最悪なことにその次に来た民主党政権はもっとひどかった。個別の経済政策を云為する以前に、そもそも日本を強くして繁栄させる気概があるのか、いったい日本と外国とどちらを守りたいと考えているのか、そういう根本的な点にすら疑問を抱かしめるような政権だった。だから、自民党も民主党もダメだということになって、私は、2012年当時《新自由主義に基づく構造改革》を掲げて旗揚げしていた日本維新の会に入ったのです。

 幸いなことに、2012年以降、第二次安倍政権は《新自由主義に基づく構造改革》を再開しており、私は非常な期待感をもってこれを眺めています。「新自由主義」とか「構造改革」と言う代わりに、「アベノミクスの3本目の矢」とか「成長戦略」といった表現が用いられていますが、やっていることは基本的に同じです。日本の国のために絶対に必要なことですので、私はしっかりやってもらいたいと思って応援していますし、同じ思いの維新の同志も多いと思います。

 現在、我々日本維新の会は国会において野党としての責任を担っているわけですが、この立場において我々が経済政策について果たすべき使命は、①まずもって、自民党が構造改革を辞めてしまわないか(これは前科があります)をしっかりと監視していくことと、②構造改革の内容について日本国のために建設的な提言をどんどんと行っていくことであると考えます。そして、③与党の推し進める構造改革が不十分なものであれば、これをしっかりと批判していくことも必要です。

 もちろん、我々が政権与党になった場合にも、《新自由主義に基づく構造改革》(安倍政権風に言えば「成長戦略」)を推し進めていくことは当然です。


【今回のまとめ】

1 「資本家」と「労働者」を《ゼロサム》の関係と捉えるマルクス主義は、歴史的に失敗であることが証明された。
2 我が国においては、《企業》と《従業員》を《非ゼロサム》的な互恵関係と捉えるべきであり、そうすることが日本の建国の体にも世界の潮流にも合致する。
3 労働力の安い新興国が世界市場に参入してきたことで、日本を含む先進国の経済は、《新自由主義に基づく構造改革》を断行することが必要となった。
4 「アベノミクスの3本目の矢」である「成長戦略」については、基本的に応援しつつも不十分であれば批判する、という是々非々の態度で臨むべきである。

トップページ

(平成26年5月記)