日本を強くする経済政策(1) ものの見方が現実をつくる、という現実

 経済政策というものを考えるにあたって、まず初めに、人間関係には《ゼロサム》の人間関係《非ゼロサム》の人間関係がある、というお話しをしておきたいと思います。

 私が高校3年生の頃の話です。大学受験を控えて、クラスメイトA君が、ぽつりと次のようにつぶやきました。

「俺が受かったら誰か一人が落ちることになるよね。嫌だなぁ」

 私は本能的にこれは違うと感じ、ムキになって反論しました。

「君が受かっても誰か一人を落とすことにはならないよ。だから安心して受かっていいんだよ」

 当時の私はこのことをうまく説明できませんでしたが、今から考えてみると、これは人間関係というものについての見方の違いであったという風に理解できます。しかし、このことをしっかりと理屈で理解できるようになるのは、もう少し先の話でした。

 幸いなことに、大学にはA君も私も合格しました。私の学んだ大学では、「しっかりと基礎的な一般教養(いわゆる「リベラル・アーツ」)を持った社会人になってくれ」ということで、専攻にかかわらず2年生までは「教養学部」というところに抛り込まれます。非常にありがたいことに、この教養学部ではかなり自由にいろいろな学問に接することができます。私は、語学(ドイツ語と中国語)と社会科学全般(法学・経済学・社会学など)を聴講したほか、コンピュータを使った数理科学の授業など、かなり自分の興味関心に合わせて聴講したことを覚えています。

 このうち、社会科学の授業で共通してよく出てきたのが、《ゼロサム》と《非ゼロサム》という考え方でした。《ゼロサム》というのは「zero sum」(零和)、つまり差し引きがゼロになるということです。これに対して、《非ゼロサム》というのは「non-zero sum」(非零和)、つまり、差し引きがゼロにならないということです。いわゆる「ゲーム理論」の初歩的な概念ですが、これは人間の意思決定の本質をよく表しているので、社会科学のいろいろな局面で活用されるのです。

 簡単に説明しますと、《ゼロサム》というのは、一言でいえばジャイアンとのび太の関係です。例えば、のび太が新しいグローブを買ってもらったとします。そうすると、ジャイアンがやって来て、

「お、のび太、いい物持ってんじゃん。俺たち友達だよなぁ(笑)」

と脅して持って行ってしまう。そうすると、のび太はグローブを1つ持っていたのが0になってしまう。つまり、マイナス1です。これに対して、ジャイアンはグローブ0だったのが1になる。つまり、プラス1です。マイナス1とプラス1を合わせるとゼロになります。これが差し引きゼロ、つまり《ゼロサム》の関係です。

 次に《非ゼロサム》ですが、恋愛関係などがこれに該ります。もし、のび太はしずかと一緒にいると幸せになり、しずかはのび太と一緒にいると幸せになるという場合には、お互いが一緒にいることで二人とも幸せになります。ここで仮にのび太の幸福を「プラス1」、しずかの幸福を「プラス1」と表現すると、合わせて「プラス2」、つまりゼロよりも多くなります。これが《非ゼロサム》の人間関係です。

 実は、一時期よく言われた「ウィン=ウィン」(WIN-WIN)の関係というのも、《非ゼロサム》の一種です。「ウィン=ウィン」の関係というのは、自分も相手も両方勝つ(儲ける)という人間関係です。その反対に、自分も相手も両方とも負ける(損する)という「ルーズ=ルーズ」(LOSE-LOSE)もまた《非ゼロサム》の一種です。勝つにせよ負けるにせよ相手と同じ運命を辿ることになるので、相手は利害関係を同じくする「仲間」だということになります。

 ところが、《ゼロサム》においては、自分が勝って相手が負けるか(WIN-LOSE)、それとも相手が勝って自分が負けるか(LOSE-WIN)の、いずれか一つしかないということになります。つまり、《ゼロサム》において相手は不倶戴天の「敵」となってしまうのです。

 冒頭の例に戻ると、A君は大学受験というものを《ゼロサム》の状況と捉えていたわけです。それに対して、私は大学受験というものを《非ゼロサム》の状況と捉えたいと考えていました。これは、演繹的なものの考え方をするか、帰納的なものの考え方をするかの違いと言ってもよいかもしれません。

 つまり、A君は「大学の入学者には定員による制限がある」という点を思考の出発点として、「俺が受かったら誰か一人が落ちる」という考えに至ったわけです。これは一見合理的な選択であるように見えます。ところが、そう考えた結果はどうでしょう。自分以外の受験生はすべて「敵」に見えることになるのです。これは人間として本当につらいことだと思います。クラスメイトも「仲間」ではなく「敵」になってしまうのです。攻撃的な性格の人であれば、周りにいる「敵」を何とかして蹴落とそうとして周りにさまざまな迷惑をかけるでしょうし、逆に優しい性格の人であれば、人を蹴落とすことが嫌で勉強するのが嫌になってしまうでしょう。あるいは、せっかく合格しても、人を蹴落としたことに対する罪悪感で苦しむことになるかもしれません。いずれにしろ、つらく苦しい結果が待っています。

 だから、「そういう苦しいのは嫌だよね、だったらそういう苦しくなる考え方はやめようよ」というのが私の提案だったわけです。だって、A君が苦しむことなんて世界で誰も望んでいないわけです。なのに、A君は自分で自分を苦しめるような考え方を選択している。つまり、A君は一見合理的なように見えて、実はきわめて不合理な選択をしていたわけです。

 要するに私は、「目的合理性」という意味で、合理的な選択をすべきだと考えたのです。そもそもA君が大学に受かろうとしているのも、自分の志望校に合格して、希望している人生を送りたいと考えているからであるはずです。だとすれば、大学受験によって自分の人生がつらく苦しくなってしまっては本末転倒ですし、まず第一にクラスメイトと一緒に気持ちよく楽しく勉強するほうが大学の合格にもつながるはずです。

 ですから、私は、個人の選択としては「大学受験は《非ゼロサム》の状況である」と考えるほうが合理的だと直観的に思ったのです。

 文系の人間の偏見かもしれませんが、自然科学の世界での真実が人生における幸せにまったく役立たないことが往々にしてあります。例えば、銀河系の別の星に生物がいるかどうかというのは、確かに興味関心を惹かれる問題かもしれませんが、私が生きていく上での幸せには全く関係がありません。だから、もし銀河系の別の星に生物がいたとしても、それは究極的には、私にとって本質的にどうでもいい事実なのです。

 それと同じように、もし仮に大学受験が定員のきっちり決まった《ゼロサム》の状況だったとしても、それは私にとってそもそも本質的にどうでもいい事実だったのです。

 しかし、客観的な事実としても、そもそも大学受験が《ゼロサム》の状況であるか疑問があります。まず、大学受験で定員というものが厳密なかたちで守られているとも思えません。私が受験した際にも、合格者数は定員よりもかなり多かった記憶があります。また、昨年私の翻訳事務所では事務員の採用面接をやりましたが、定員2名のところ3名を採用しました。定員以上に採りたい人がいれば採るし、逆に、採りたい人がいなければ定員未満でも採らない。採用する側の本音は、大体そんなものだと思います。だとすれば、ある程度《非ゼロサム》と考えてもあながち間違いではありません。

 ましてや、そのほうが人生が幸せで楽しくなり、気持ちよく勉強できるのであれば、そう考えるほうが合理的であると考えています。

 以上縷説してきましたが、まとめると

1 人間関係には《ゼロサム》の人間関係と《非ゼロサム》の人間関係がある。
2 《ゼロサム》の人間関係→周りがすべて「敵」になる→つらく苦しい。心がすさむ。
3 《非ゼロサム》の人間関係→周りの人が「仲間」になる→人生が楽しくなる。
4 同じ状況でも、見方により《ゼロサム》にも《非ゼロサム》にもなりうることがある。

ということになります。

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(平成26年5月記)