石原慎太郎先生衆議院予算委員会質問(平成26年10月30日)


石原(慎)委員 しばらくぶりに予算委員会に参りまして、後ろで長らく傍聴しておりましたが、大分細々した高級な議論が続いているようでありますけれども、ここで一つ模様がえしまして、大まかな、国家の基本に関する大事な問題についてお尋ねしたいと思います。

 我々、次世代の党は、自主、自前、新保守の理念を踏まえて、次の世代の日本人のために、その成立の歴史的経緯からして正統性を著しく欠く現憲法を改正して、あくまでも自主憲法を制定したいと念願し、それを党是に掲げておりますが、現憲法についての総理の総体的あるいは具体的な所感をぜひお聞きしたいと思います。

 ハーグ条約を含めて、従来の国際協定に違反して、戦勝国として占領軍の絶対権力の所業として一方的につくられて押しつけられた現憲法には、いろいろな問題がありますが、何よりもその前文に非常に多くの間違いがあると思います。

 この絵図をごらんいただきたいんですが、これは、日本が降伏して間もなくの八月十九日に、アメリカの代表的な新聞でありますニューヨーク・タイムズの、日本をこれからいかに解体統治するかという論文の冒頭についた漫画であります。

 この漫画が表示するように、戦勝国アメリカあるいはその他の連合軍にとって、まさにこの漫画が表示するような、醜悪で非常に危険な存在であった日本を、これから、天皇をいかに扱うかという問題も含めて、いかに統治解体するかということで占領が始まったわけですけれども、その統治解体の有効なすべとして、一方的につくられた憲法が私たちに押しつけられたわけであります。

 総理に憲法についてお考えをただす前に、僣越ながら、国語についてのおさらいをしてみたいと思うんですね。

 いかなる国語の文章の構成要素としても、名詞、動詞、副詞、助動詞、形容詞、助詞、間投詞、間投詞というのは助詞の一種ですけれども、俗に、てにをはと言われる助詞があります。これはごく小さな言葉でありますが、実は非常に深く重い意味合いを持つ言葉でありまして、てにをはなる言葉、つまり、これは助詞の総体をあらわす言葉ですけれども、この助詞というものは極めて重要な性格の言葉です。

 特に、助詞の使い方によっては、文章の印象が致命的に左右されますね。助詞の重要性について、日本の大きな辞典の広辞苑の中に、てにをはという条項がありますが、その中に、てにをはの間違いは、その文章の意味を常軌を逸して伝えることになるとありますね。これは非常に暗示的な表示でありまして、助詞一つを間違いますと、文章そのものが非常に大きく誤解される可能性があるわけです。

 まず、助詞の重要性を示す一つの事例として、私は、私の好きな永福門院という人の歌を挙げて、お聞きいただきたいと思います。

 永福門院というのは、伏見天皇の中宮でありました。中宮というのは、よくわかりませんが、皇后に等しい地位のおきさきです。しかし、中宮とはいえ、当時の古い宮中のあり方として、彼女は恐らく天皇の側室の一人だったと思いますね。

 この永福門院という方は、非常に珍しい歌人でありまして、京極派の家元とされる叙景歌人です。つまり、景色を主に歌う、そういう非常に秀抜な歌をたくさん残した歌人でありますけれども、これは、歴代の歌人の中でも、そういう意味で非常に珍しい歌人なんですね。

 彼女の歌は、歌集としては残っておりませんが、主に後拾遺集の中にたくさん集められております。私もそれを通じて彼女の歌を鑑賞しましたが、非常にすばらしい歌がたくさんあります。

 私が非常にその中で好きな歌の一つにこういう歌があります。「真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく」、これは実に美しい歌ですね。「真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく」。これは恐らく、天皇の寵愛を失いつつあった彼女がそのわびしい身の上をかこって歌った歌でしょうけれども、この歌を非常に評価する日本文学を愛好する翻訳家がたくさんいまして、これを訳した人がいるんです。

 私は、それは誰だったか覚えていませんが、多分、ドナルド・キーンさんかあるいはサイデンステッカーさんか、あるいはジョージ・ネイサンさん、その誰かだったと思いますけれども、彼から苦労して訳したこの歌の英訳というものを私はもらいまして、私の拙い英語の能力ですけれども読んでみて、なるほどなと思ったんですね。英文ですけれども、いかにもこの歌の雰囲気が伝わってくるんです。

 しかしそのときに、誰でしたか、翻訳家の、キーンさんでしたか、サイデンステッカーさんでしたか、石原さん、これを一生懸命私は訳したんですけれども、でも、あそこだけがだめなんですよね、あの一つだけがどうもうまくいかないんですよねと言ったんですね。どこですかと私に聞くから、私は、わかりますと。総理、これはどこだと思いますか。「真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく」。私は、あそこでしょうと言ったら、そうなんですよと、意見が一致したんです。

 これは、「ぞ」という間投詞なんですね。「夕日の影ぞ壁に消えゆく」、この「ぞ」という、これは、夕日の影は壁に消えゆくでも夕日の影も壁に消えゆくでも通じるんですよ。ただ、この「ぞ」という、日本人の語感からいって、読むと本当に身がしびれるような、ぞっとするような深い情感を伝えるこの間投詞、助詞というものの意味合いというものは、これはとにかく日本人独特のものですし、なかなか外国人に翻訳し切れにくいものだと思います。

 この間投詞というものは、やはり国によっていろいろ違いますし、その国の感性というものがあらわれているわけですけれども、例えばシェークスピアの芝居の中に、どの芝居でありましたか、自分の大事な友達を失って、それを悼むせりふがあるんです。アラース・ヒー・イズ・ノーモアという、これは、ああ、彼はもういない、そういうせりふなんですけれども。

 このアラース・ヒー・イズ・ノーモア、このアラースというのはイギリス独特の間投詞でして、アー・ヒー・イズ・ノーモアでもオー・ヒー・イズ・ノーモアでも通じるんですけれども、わざわざアラースという言葉が使われている。これも、私はよくわからずに、英和辞典で引きましたら、これは、英語独特の深い感情をあらわす間投詞、助詞という注釈がありました。これまた、さっきの「夕日の影ぞ」の「ぞ」と同じように、やはり我々異邦人、日本人には、いかに英語の堪能の人でも、感覚的に伝わりにくい事例だと思いますね。つまり、これほど、いかなる国語にとって、助詞の意味合いというのは非常に大きいわけです。

 現憲法の前文の中で、こういう間違いがたくさんありますね。

 あの現憲法の前文の冒頭の一部ですけれども、こういう文章がありますね。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」という文章がある。これから導き出されてきた第九条は、日本人の多くに膾炙した絶対平和という、いわば非常に危険な共同幻想というものを導き出したわけでありまして、九条がそれを如実に反映しているわけですけれども。これは、今日の緊迫した世界情勢の中での、集団的自衛権に関する正当な議論の大きな妨げになっているわけです。これは、私は、やはり憲法の前文としても非常に厄介な、危険な事例だと思いますよ。

 この「公正と信義に信頼し」の「に」という助詞は、使い方として明らかに間違いですね。誰かに借金を頼まれたときに、しようがない、わかった、あなたに信頼して金貸そうと言いますか。あなたを信頼して金貸そうと。これは、一般の社会の中で、例えば口約束にしろ、証文を書くにしろ、あなたを信頼してと書きますけれども、あなたに信頼してということでは、これは、借金の義理に応じる主体者の存在、あるいは客体者の存在が非常に曖昧になると思いますね。

 平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼しという、このおかしな日本語というのは、本当に危険な、非常に日本に厄介な問題をもたらしている九条につながるわけですけれども。これは、あくまでも、要するに、平和を愛好する諸国民の公正と信義を信頼してとなるべきだと私は思います。

 その他の前文の中でも、助詞の間違いはいっぱいあるんですね。つまり、我々の日常の会話の中で慣用されていないような助詞の言葉遣いは、外国人のつくった憲法の前文の中にたくさんありますね。

 例えば、後段の、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、」云々の「から」というのは、これはとてもおかしい助詞だと思います。原文は、フリー・フロム・フィア・アンド・ウオントという言葉ですけれども、フロムという言葉は、まさにフロム・トウキョウ・ツー・オオサカ、東京から大阪のフロムでしょうけれども、これは、日本語の慣用としても、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、」じゃなしに、欠乏を免れというのが正しい日本語です。これは、やはり本当に文章の印象というものを混乱させる間違った助詞の使用だと思います。

 かつて、シェークスピアの翻訳を全部した、翻訳家でもあった英文学者であった、かつての日本の代表的な論客であった福田恆存さんが言っていますけれども、憲法の前文は、英文の翻訳としてはせいぜい七十五点だと。大学生の採点というのは、優、良、可、不可とあって、可は七十五点なんです。これは落第の寸前の。しかし、せいぜい、福田さんに言わせれば、日本の憲法の前文というのは、英文和訳としても可の域を出ない、こんなていたらくでしかないわけですよ。いかに崇高な理念をうたい上げるのも結構ですけれども、それを表現する言葉が、狂うことを言ったのでは、これはどうしようもない。まさに画竜点睛を欠くとしか言いようがないと思いますね。

 総理も私も、日本男児として、あくまでも自主憲法の制定を念願しておりますけれども、その大願成就のために、まずの一里塚として、せめてこの前文の冒頭の助詞の間違いを、「公正と信義に信頼して、」の間違った助詞の「に」、この「に」の一字だけでも変えていただきたい。変えようじゃないですか。

 これを変えるためにはどうしたらいいですか。私は法制局の長官に聞こうと思ったんですが、多分、これはお役人の言葉で、国会の審議にかけて、その後、決まったら国民投票。しかし、間違った言葉の助詞一字を変えるために国会が審議する必要はあるんですか。国会議員だって、ばかの集まりじゃないんだ。そう言われたって仕方ない節がないでもない今日ではあるけれども。それを国民投票にかけるというのも、これはまさにお金と時間の無駄だと思いますよ。

 これは、総理が決断されて、要するに、国語の専門家たちを集めて審議をさせて、その答申を受けて、やはりこの前文の、危険な、九条というものを導き出す、要するに引き出し役になっている前文の、平和を愛好する世界の国民の公正と信義に信頼し云々から結局九条が導き出されてくるわけですから、この「に」の一字だけは変えようじゃありませんか。

 そのための手続というのはいろいろ議論があるかもしれませんけれども、私は、まさにこれがアリの一穴でありまして、この「に」の一字を変えることがアリの一穴となって、敗戦後七十年にして、ようやく私たちは自主憲法の制定につながる。それによって、とにかく日本人の主体性というものを回復することができるんじゃないかと思います。そう信じてやみません。

 ですから、どうか総理、この「に」という助詞の一字を変えるだけで、あなたはまさに後世に名を残す総理になれるはずだと私は思いますよ。この「に」は明らかに間違いです、日本語として。

 誰かに大金を頼まれて、その相手にお金を貸すときに、君を信頼してと言いますよ。君に信頼してとは言いませんよ。要するに、これでは大金を貸し出す主体者の立場の位置が曖昧になってしまいます。世間でも、契約にこんな文章は通用しないはずです。

 ですから、古い文化と伝統を誇るこの日本の憲法の前文に、これほど多くの助詞の誤りがあります。ゆえにも、言語として慣用性に欠けて、日常に通用しない代物でしかない。まさに、この間違った前文で始まる憲法をいただいているのは国辱ですよ。これは本当に文化の破壊であると私は言えると思います。

 何も、問題の多い、絶対平和などという共同幻想を育んだ九条をいきなり変えろとは申しませんが、せめてこの「に」の一字だけでもみずからの手で直すことを、ひとつ総理、決心していただきたい。これはあなたの非常に大きな仕事になると思いますから。「に」の一字だけ変えましょう。これを変えることで憲法の印象というのは変わってくるんですから。ぜひそれをお願いします。お願いして、終わります。

大島委員長 総理の決意のお話をしてから、お帰りいただくように。

安倍内閣総理大臣 文学者である石原慎太郎先生らしい御指摘だと思います。

 私も中学生時代だったですか、国語の授業でこの前文を丸暗記させられました。当時は、先生から、これは美しい文章だ、こう言われたわけでございますが、しかし、子供ながらにも、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というのは、何となく、すっと入らなかったことを今思い出しているわけでございます。

 しかし、一字であったとしても、これを変えるには憲法改正が伴うわけでございます。そこは、「に」の一字でございますが、どうか石原議員におかれましては、忍の一字で......。

 これは、憲法改正国民投票法を改正いたしまして、十八歳から投票が可能になりました。これは、若い皆さんにも、憲法について身近に考え、自分たちも変える権利があるんだということにもう一度思い至って、今おっしゃった指摘も含めて考えていただく。きょうの議論を契機としていただきたい、このように思うところでございます。

石原(慎)委員 終わります。ありがとうございました。


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